「ミュウツーの逆襲完全版」の感想と考察。アイツーについてなど

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僕がこの映画を観に行ったのは、
サトシと同い年の10才の時。

以来、定期的に見返しては、
大切なものを再発見できる映画です。

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本当に好きなものって、
なかなか言葉で表すのが逆に難しかったりするのですが、
今回、あえてミュウツーの逆襲の考察と感想を書いてみました。




大人が見ても面白いように

脚本家の首藤剛志さんは、
この映画を「大人が見ても面白かった」
と言えるものにしたかったとおっしゃっています。


大人にも、いや大人にしか分からない……というより、
普通は大人も意識していない事も、
少しだけ放り込もうとした


引用:http://www.style.fm/as/05_column/shudo173.shtml


まず、この工夫が、
大人になった初代ポケモン世代に響いているわけです。

「子供の頃に観たけど、大人になって見返しても面白かったよ」
と言える内容になってるのはこの工夫のためでしょうね。




自己存在がテーマ

※以下、ネタバレ含みます。

首藤さんのコラムでは、
「自己存在と差別」がこの映画のテーマだったと書かれています。

『ミュウツーの逆襲』のテーマは
「自分とは何か?」である。
たぶん、そのテーマは世界に通用する。

引用:http://www.style.fm/as/05_column/shudo168.shtml

なるほど。

これは、大体全ての人が考えるテーマですね。


僕は「自分って何か?」って初めて考えたのは
3歳くらいだったかと記憶しています。

3歳なので、大したことは考えてなかったですけど、
自分はなんでここにいるんだろう?
と毎日なんとなく不思議に思っていました。


ミュウツーを作り出したフジ博士が、
愛娘の「アイ(アイツー)」を機械的に作り出す展開。

僕は、フジ博士の気持ちが分からない訳ではないですし、
「絶対に間違い」と断言する事も出来ません。


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各キャラクター達が思っていたこと

後半の本物とコピーポケモンが戦い、
サトシが石化するまでのシーン、
各キャラクター達はどのように思っていたのか、
首藤さんのコラムを参考にまとめました。



ミュウとミュウツー

ミュウツーは、ミュウに勝つことが自己存在の証だ。

他のポケモンの本物とコピーのポケモンも同じだ。


バトルに勝った方が、存在する意味がある。
ミュウは、ミュウツーのやったことはどうでもいい。

だから、オリジナルのポケモンとコピーのポケモンの戦いは傍観している。


ただし、自分のコピーは許せない。

だから、コピーのミュウツーを嘲笑するような対決の仕方をする。

引用:http://www.style.fm/as/05_column/shudo167.shtml

「ミュウがミュウツーを許せていない」
というのは、正直意外でした。

ミュウは、劇中でほとんど感情らしい感情を表に出しません。
自分のコピーポケモンを作ろうとしていた人間達にも、
自分に臨戦態勢をとっていたミュウツーにも、
キョトンとした表情でノラリクラリと交わしている印象だったので。


だから、後半でミュウがミュウツーと戦い始めた部分が
ずっと腑に落ちていませんでした。


「どうして、クスクス笑いながら争いを避けていたミュウが、
 突然戦い始めたんだろう?」
という疑問があったのですが、

「許せていなかった」という解釈を聞けば、
たしかに言動に納得がいきます。



それを裏付けているのが、
ジョーイさんのセリフ。

生き物は、同じ種類の生き物に、
同じ縄張りを渡そうとはしません。
相手を追い出すまで戦います、それが生き物です。 

あんな温厚に見えるミュウさえも縄張り(自己存在)を守るために闘う。
伝説のポケモンと称されるミュウもまた、
1つの生き物であるという証明でもありますね。




ロケット団

 ロケット団のムサシとコジロウは、
その戦いに、自分達の姿を見る。

「この戦いは自分たちの姿を見ているようだ」という2人の台詞は、
「自分たちはロケット団だ」といつも大見えな口上で名乗りながら、
少しも本来のロケット団になりきれていない、

いや、もしかしたら本当はロケット団になる気もない
ロケット団を名乗る矛盾があるのだ。

引用:http://www.style.fm/as/05_column/shudo179.shtml



人間になりそこなって、
本来のポケモンにもなりきれないロケット団のニャースは、
自己存在というものに何か諦観したものを持っている。
なんとなくロケット団のニャースは、コピーのニャースに空を見上げて言う。

「今夜の月は満月だろな……」 

自己存在のための戦いなんてどうでもいいじゃないか。

ともかく、戦わなければ、ロケット団のニャースも、コピーのニャースも、
傷つかずに一緒にのんびり今夜の月を観る事ができる。

引用:http://www.style.fm/as/05_column/shudo179.shtml

彼等の、いい意味での消極さを見て、
はじめて(?)敵役であった彼等を好きになりました。

これを見てからしばらく、
「一番好きなポケモンはニャース」と言い張ってたくらいなので。

あの場に居たポケモンの中で、
このニャース2人が、一番自分の考えに近い存在かもしれません。


争いが目の前で起きていたら、
できる事なら逃げたい。
傷付く事なんかしたくない。

そう思う事は、決して悪いことではないと思うのです。


「闘わないでズルイ」と互いに言い合いますが、
そういう「いい意味でのズルさ」を出しても許されるのが、
彼等のキャラクターでもあるので。




ピカチュウ・コピーピカチュウ

サトシのピカチュウは、野生のピカチュウではない。

人間に育てられ、人間とともにいる。


つまり本物とは言えない。

しかし、とはいえコピーではない。

ポケモンとしては、不確かな存在なのだ。
自分が不確かゆえに、コピーへの反撃ができない。
したくない。

サトシのピカチュウがコピーのピカチュウに抵抗しないのは、
サトシのピカチュウが持つ性格のやさしさだけではない

自己存在の不確かさもあるのだ。
「なぜ、戦ってくれないのか?」

コピーのピカチュウは、何度も何度も、サトシのポケモンを殴る。

しかし、サトシのピカチュウは応戦しない。ただ、殴られるままだ。


やがて、コピーのピカチュウは殴り続ける自己の不確かな存在が悲しくなってくる。


不確かなものと不確かなものの戦いに意味があるのか?

それどころかそもそも自己存在意識に、確かなものがあるのか?


それは、「自己とは何か?」と問い続ける
自己存在の不確かさにもつながっていく

引用:http://www.style.fm/as/05_column/shudo179.shtml

自己存在の不確かさ。なるほど。


そこまでは読み取れませんでしたが、
ピカチュウVSピカチュウのこのシーン、
ポケモン達の悲しみはすごく感じました。


苛立ちと悲しみって表裏一体の場合が多いです。


何かをやって上手くいかない時、
ついつい周りに当たってしまう時もあるでしょう。

でも、その裏にあるのは、
「どうしてダメなんだろう。自分は価値が無いんだろうか。」
という悲しみ。

それに近い感情(そしてそれよりもっと大きな悲しみ)を、
彼等は感じていたように思います。


「ピカチュウ!!」「ピカチュウ……」
と会話するピカチュウ達のやり取りは、
「なんで闘わないんだ!!」「こんな闘いは違うよ……」
という声に僕は聞こえました。



 

サトシ

「やめろ!」

意識したのではなく、サトシはそう叫び、体が動いてしまったのだ。


ミュウとミュウツー戦いの間に入って、
双方の攻撃を浴びてしまい倒れたサトシは、
死ぬのではなく石化して動けなくなってしまう。


ゲームであろうと競技であろうといままでバトルを肯定してきたサトシは、
無意識でバトルを否定してしまった。

サトシの行動は矛盾している。

だから動けない。
しゃべれない。
石になるしかない

引用:http://www.style.fm/as/05_column/shudo179.shtml

「矛盾した行為→石化」
という事だったんですね。


僕は、ポケモンアニメが始まった時から、
サトシが好きです。
自分には無い、まっすぐさを持っているから。


例えば、目の前でケンカやいじめが起こっていた時、
僕は、なるべくそこに参加しないよう、
見て見ぬフリをして生きてきました。

自分が巻き込まれないように、
意識的にその状況から逃げたこともあります。


サトシは絶対に逃げない。
自分の仲間のために、戦えるし、投げだせる


この映画のCMでは
勇気・友情・命の大切さを描いたアクションムービー
とキャッチが付けられていましたが、
このシーンが、一番それを感じさせてくれました。




他のポケモン達

喧嘩しているポケモンは、喧嘩をやめさせてくれる何かが欲しかった。
 それが、そもそもの喧嘩の原因であるポケモンのコピーを作った人間の、
それもポケモンを戦わせ勝つことを目指すポケモントレーナーだった。
 存在するはずのない種類の人間がいて、しかし、もう息をしていない。
 「自分たちの戦いでとても大切な存在を失った」
 悲しい……喪失感の悲しさが涙になる。

 ポケモン達の涙は、同情でも憐れみでもない喪失感なのである。
 その涙に、コピーも本物も違いはない。

引用:http://www.style.fm/as/05_column/shudo180.shtml

このシーンだけでなく、
映画全体を通して「喪失感」を感じる映画だったと思います。


ポケモンバトルの何がいいかって、
闘う事でお互いを高められることです。

逆襲のポケモン達の戦いからは、
縄張りを争う→お互いを否定し合う
というものに近い感じを受けました。

もしかしたら、それも含めて成長なのかもしれませんが、
少なくとも僕は、悲しさ=喪失感に近い物を感じました。




ミュウツーが出した答え

「自己存在の問い」に対しては、
自分がポケモンなのか人間なのか、クローンなのか、
一つの答えを見つけたミュウツーがいる。

 相手がポケモンであろうと、クローンであろうと、
はたまた、出会うことのなかった何かであろうと、
自己存在のある限り、
われわれはどんなものとも共存できる。


引用:http://www.style.fm/as/05_column/shudo184.shtml

この「自己存在→共存」というテーマは、
「ミュウツーの逆襲→ルギア爆誕」と繋がっていく訳です。




続編の「ミュウツー 我ハココニ在リ」の中で、
ミュウツーはこんなセリフを言っています。

私は誰だ?
私は少なくとも、この星に生きていい生き物だ!


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ラストシーン

作品の途中経過がどうなろうと、僕はラストにいれるセリフは決めていた。

サトシ「でもなんで、おれたちこんなところにいるんだろう?」
カスミ「さあ、いるんだからいるんでしょうね」
ピカチュウ「ピカ」
サトシ「ま、いいか」
ピカチュウ「ピカ」
「自分とは何か?」の答えは、
これしか僕には用意できない。

引用:http://www.style.fm/as/05_column/shudo168.shtml

僕は、何年かに一度、
この映画を見返しています。

トータル10回以上は見ているのですが、
未だに「ミュウツーの逆襲ってこういうもの」
という答えが出せずにいます

知り合いのポケモン好きに感想を求めても、
「なんでか分かんないけど泣ける」と、
理由の言語化ができないのです。


それは、「自分とは何か?」
という問いへの答えが出せないけど、
それでもやり続けている人生というものに似ているのかな、
と思いました。


「自分とは○○だ。」正解!
というものが存在しない以上、
この映画に対しての答えも出すことはできないのでしょう。

逆を言えば、
「答えを出せない」というのが1つの正解なのかもしれません。




おわりに

あらためて、
感じてる通りに書き起こすのは難しい映画だな、
と思いました。

他の作品とかだと、
結構サラリと感想を書けたりするんですけど、
今回は「これで自分が言いたい事と合ってるかな」
と自問自答しながら少しずつ書きためて言った感じです。



あと余談ですけど、
この映画の後に発売されたゲーム、
「ポケットモンスター金銀」の中で、
持っているポケモンを「コピーして増やす」裏技が流行りました。


その裏ワザをやっていたら、
友達に「ミュウツーの逆襲見たんだろ」と軽く怒られ(;一_一)

たしかに、ゲームでもモラルを考えるなら、
コピーの裏ワザなんてやっちゃダメかもですね。



まあ、裏技をやりたい人はやってもいいかもですけど、
この映画を通して感じた、
自己存在や差別に対しての想いを、
裏切るようなことはしたくない
と思っています。



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以上です。
読んでくれてありがとうございます。


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