この映画の魅力を一言で言うとそんな感じです。
前作、ミュウツーの逆襲の存在感に隠れて
印象が薄くなってしまいがちな作品ですが、
やっぱり見返してみると、
ジーンとくる場面がいくつかありました。
「自己存在」から「共存」がメインテーマに
前作では、コピーポケモンのミュウツー達が、「自分とは何か?」を問う内容の作品でしたが、
ルギア爆誕は
「共存」がテーマになっています。
脚本家の首藤剛志さんのコラムを読むと、
ミュウツーの逆襲では出ていなかった
「自分とは何か?」という問いかけを、
ルギア爆誕で「共存」という形で
2作を繋げて描いたということを知りました。
また、コラムには
首藤氏が思う「共存のあり方」も
書かれていました。
僕の考える共存とは
自分の自己存在を尊重し、
自分の思い通りの生き方をして、
なおかつ、気がつけば他の人(生物)も、
一緒に生きているということなのである。
引用:http://style.fm/as/05_column/shudo197.shtml
さすが脚本家というか、
アーティストっぽい考え方です。
僕も、気質としてはアーティスト的な考え方をするので、
ここはとても共感しました。
この映画で出てくるキャラクターのほとんどは、
そういう意味での「自己主張」の強い人達でしたし。
深層海流をベースに、
火の神(ファイヤー)・雷の神(サンダー)・氷の神(フリーザー)と、
海の神(ルギア)を「自然のバランス」と比喩して、
世界規模での「共存」を入れてくる演出、
見事です。
キャラクターみんなを主役級に
さらにこの作品で首藤氏は、「ロケット団を主役にしたかった」
と言っています。
しかし、サトシとピカチュウの活躍を
見に来ているであろう観客を前に、
悪役を主人公に台本を書くわけにはいかないので、
結果「登場キャラクターみんなを主役級に描こう」
と思ったそう。
たしかに、どのキャラクターも個性的で際立っています。
唯一、ケンジだけは、
大人の事情でのタケシとのトレードだったので
(そこら辺についてはこっちの記事に書きました)
あんまり引き立つ書かれ方をしてない感じがしましたが、
カスミ・フルーラ・サトシママ・
そしてロケット団などは、
みんなサトシピカチュウと同等の見どころシーンがありましたから。
相手に「あんたが主役だ」と口にする台詞は、
裏で「実は私が主役だ」という意味を持つ場合がある。
だからこそ、
どこから見ても主役に見えるサトシに、
「あんたが主役!」というロケット団トリオは切ない。
引用:http://style.fm/as/05_column/shudo205.shtml
ドラえもんだと、
なぜか映画の時だけジャイアンがいい奴になりますが、
ポケモンでもロケット団に対して同じことが言えそうです。
とくにこの作品は、
中盤の彼等のカッコ良さが目立ちますし。
ルギアの体から手を放して、
氷の地に落ちていく場面は、
サトシと一緒に
「ロケット団~~!」
ってなりましたもの(@_@。
カスミとフルーラの関係
アニメヒロインのカスミと、映画ヒロインのフルーラの関係も、
見ていて良かった(^o^)丿
最初のフルーラのサトシにキスするシーンと、
それを「はっ!?」みたいに見るカスミ。
2人とも、
サトシに恋愛感情は無いんだけど、
なぜか女の戦いが始まっちゃう感じは、
すごいいい演出でした。
特に劇中で良かったのは、
フルーラがカスミに、自分の(大切な?)オカリナを渡そうとし、
サトシを助けに行こうとする場面で、
カスミが、
これはあなたの笛。
あなたの役目。
あいつは私の厄介者。ね?
と言って、
固い握手を交わすシーン。
「姉さん達、カッコいいっす!」
と思わせてくれました
また、フルーラとサトシが、
「フルーラさん」
「サトシくん」
と、さん付けくん付けで呼び合ってたのに対し、
カスミは終盤のシーンで、
「フルーラ!」
と呼び捨てで呼んでいたのが印象的でした。
今回の危機を通して、
2人は何かを超えたんだなー(変な意味じゃないよ(^_^;))
としみじみ思いましたし。
サトシママの最後の言葉
首藤氏のイメージでは、作っていくうちに「ルギア=女」というイメージになっていったそう。
「女にした方が良かった」とはっきり思ったのは、
声当てが山ちゃん(山寺宏一)に決まってからだったので、
結局は男っぽい声になりましたが、
たしかに、「海の神=男」より、
「海の神=母」という方がしっくりきます。
そしてラストのサトシママのセリフ。
サトシが世界を救うために無理をしたことに対し、
それがなんなの!
あなたはまだ子供なんだから無茶はダメ!
世界を救う?
命がけでする事?
サトシがいなくなったら、
サトシの世界はもう無いの。
私の息子はもういないの。
あなたがいるから、世界はあるの。
「自己存在」と「共存」というテーマの答えが、
このセリフに込められてる気がします。
飛行艇が壊れたあとのジラルダン
これを見ていた当時、ちょっと謎だったのが、
ラストシーンのジラルダンと、
彼の足もとに落ちたミュウのカード。
この意味は一体??
と思っていたんですが、
それもコラムの中に書かれていました。
ジラルダンは、
一回手に入れたコレクションには、
もう興味が無いという設定で、
ジラルダンは自分の登場する最後のシーンに幻のポケモン、
ミューのカードを見て微笑みすら漏らす。
おそらく彼は、
次のポケモンのコレクションの対象を
ミューにしたのだろう。
地球が壊れようと宇宙が消えようと、
彼の自分本位な欲望には関係がないのである。
引用:
http://style.fm/as/05_column/shudo199.shtml
とのこと。
僕はてっきり、
最後のシーンのジラルダンのほほ笑みは、
「やっとコレクターの重圧から解放された」
的な、毒が抜ける表情かと思っていたのですが、
実際描きたかった演出は真逆だったんですね(^_^;)
その3年後の映画
「水の都の護神ラティアスとラティオス」
のエンディングシーンでは、
刑務所に入っている
悪役2人(ザンナーとリオン)が、
図書室でジラルダンの飛行艇の絵を見て、
何やら悪だくみしている場面があったのですが、
「わがままな奴はどこまで行ってもわがまま」
って書き方なんですね。
「俺は間違っていたよ」
と安易にならないことは、
僕にとっては魅力的な演出です。
おわりに
公開されたのは1999年。当時小6だった僕は、「共存」がテーマの
この2作目の劇場版ポケットモンスターを、
一人で観に行ったのを覚えています(@_@。
前作の「ミュウツーの逆襲」も観に行きましたが、
それは2回上映を見たのですが、
「ルギア」に関しては1回見たら満足って感じでした。
それは自分の中で、
「ミュウツー>ルギア」
って感じだったんだろうと思っていたのですが、
あらためて見返してみると、
ちょっとその気持ちは変わり、
ミュウツー:自己存在への答えが分からない→もっかい見なきゃ
だったのに対し、
ルギア:自己存在の答えがなんか分かった気がした→満足
という事だったのだと思いました。
物語的には、
「ミュウのカードが出てくる」というくらいしか、
繋がりは無いのですが、
深い所にあるテーマと、その答えは、
2作は繋がっていると言えます。
(厳密に言えば3作目のエンテイも)
なので、
ミュウツー→ルギアと続けてみてみると、
またちょっと違う感動を味わえました。
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本ページの情報は2022年11月時点のものです。最新の配信状況はU-NEXTサイトにてご確認ください。
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以上です。
読んでくれてありがとうございます。
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